伝説の4人組ロックバンド、Queen――
映画「ボヘミアンラプソディー」でご存知の方も多いのではないでしょうか。
中でもボーカルを担当しているフレディ・マーキュリーは、
今も伝説として語り継がれ死してなお、生前を知らない私たちにまで影響を及ぼし続けています。
フレディ・マーキュリーはセクシャルや病気の問題、容姿や出自などのコンプレックスに悩まされていました。それでも、性別や環境、国籍さえも飛び越え、多くの人の心に突き刺さるメッセージを届けました。
フレディ・マーキュリーの信念を貫いた生き様から、20代をいかにして生きるかを学んでいきたいと思います。
フレディ・マーキュリーの経歴
フレディ・マーキュリーの一生は、東アフリカ・タンザニアにあるザンジバル島のストーン・タウンで始まります。当時はフレディ・マーキュリーという名ではなく、ファルーク・バルサラという名前でした。幼少期をインドで過ごしていた際に、英国式寄宿学校の先生がファルークという名前を正しく発音できず、周りの生徒からも覚えてもらえませんでした。そこで、Fから始まる平凡な名前のフレデリックという仮名で呼ばれ始めたことがきっかけで、フレディという愛称が広まっていったのです。
7歳になったとき、フレディ・マーキュリーはピアノを習い始めました。これが彼の音楽人生の幕開けとなり、高校の際には複数のロックバンドに所属するほど音楽に打ち込みました。当時、ラジオを聞いた後で、その曲をその通りにピアノで再現するという記録もあるほど、人並み外れた音楽センスをすでに持ち合わせていたようです。
音楽に打ち込み、再び家族と共に過ごすこととなった直後に起きたのが、ザンジバル革命でした。当時17歳のフレディ・マーキュリーは、多くのアラブ人とインド人が亡くなっていく中で身の危険を感じ、家族とともにイングランドのミドルセックス州に移り住みます。イングランドでの生活の中で、フレディ・マーキュリーは自身の容姿やインド人であることにコンプレックスを感じ始めます。「部屋でひざを抱え、音楽だけが居場所だった」と語るほどに、孤独や葛藤にさいなまれました。その中で自分を保つ方法が、彼にとっては音楽だったのです。
フレディ・マーキュリーの過ごした20代
フレディ・マーキュリーの20代は、まさに音楽なしでは語ることのできない、キャリアや実績を築く上での大きなターニングポイントとなりました。理想の音楽を追求し、バンドを転々とする中で、1970年4月、Queenの前身となるSmileというバンドに加入します。
1970年7月には、フレディ・マーキュリーの提案でバンド名をQueenと改名します。このバンド名の由来について「堂々としているし、響きもいい。それに力強さもあって、どこにでも通用する分かりやすいネーミングだ。ゲイを思わせるような名前だとは分かっていたが、それはほんの一面に過ぎない」とフレディ・マーキュリー自身が語っていたそうです。
そして1971年 フレディ・マーキュリーが25歳のときに、私たちの知る4人のメンバーが揃い、ついに伝説のバンド Queenが完成します。
もちろん結成後すぐに華々しい功績を得たわけではありません。批判やメンバー間の確執など、問題も絶えない中で着実にファンを増やし、1974年『キラークイーン』が全英2位になったことで、一気にブレイクすることとなります。そして1975年、彼が29歳のとき、映画の題名にもなった『ボヘミアンラプソディー』を発売。全英で9週連続1位を獲得する大ヒット曲となります。その勢いは1980年代になっても衰えず、世界的なバンドとして快進撃を続けることになります。
しかし、スターになってからもセクシュアルマイノリティだったことで、世間からは理解がされなかった自身のアイデンティティに大きな苦悩を抱えていました。それでも彼は、自分を自分らしく表現することから逃げず、信念を持って音楽人生を全うしました。最後、フレディ・マーキュリーはエイズに侵され、45歳の若さでこの世を去ることになります。あまりにも早い死ですが、長くない音楽人生を通して彼の懸命な生き様が現在の社会に与えた影響は計り知れません。
フレディ・マーキュリー 3つの金言
映画の中でも語られていたように、彼の人生は決して順風満帆ではありませんでした。批判や差別を受けることも多々ありました。それでも負けずに、自分の持つ信念を貫き通したからこそ全世界で多くの人に語り継がれている今のフレディ・マーキュリーやQueenがあります。
私たちが「20代をいかにして生きるべきか?」という問いに対して、自分なりの答えを出すためのヒントとして、フレディ・マーキュリーの大切にしてきた生き方を表す3つの言葉を紹介したいと思います。
Compromise is the dirtiest word for me.
(妥協は僕にとって、最も汚い言葉だ。)
アートや音楽を表現することで、世の中に新しい価値を生み出し続けていた彼にとって、“妥協”という事は一切許されない、許せないのでしょう。アーティストとして観客に対して常に完璧なフレディ・マーキュリーを見てもらいたいというプロ意識の高さとも言えるかも知れません。
妥協という言葉は多くの人にとって耳が痛い言葉なのではないかと思います。常に完璧であり続けることや目標を目指し続けることは、決して簡単ではありません。しかし、妥協する毎日を過ごしている限り、アートにしてもビジネスにしても学業にしても、偉大な成果を得ることはできません。もっと言えば、自分のファンや協力者を増やすことや社会を動かすことが難しいでしょう。
負けそうになったとき、挫けそうになったときに、この言葉を思い出してください。きっとフレディ・マーキュリーのように逆境に屈さず、強い信念や内側の願望を強く刺激してくれるはずです。
I’ll be the legend which won’t be a star!
(僕はスターにはならない、伝説になる!)
フレディ・マーキュリーは、この言葉通りスターではなく伝説になりました。揺るぎない信念が結果をつくり出し、多くの人の心に訴え、死してなお語り継がれる伝説となったのです。
通常であれば、大言壮語と捉えられる言葉だと思います。彼は人気者ではなく、人々に言い伝えられるような人物を目指しました。どれくらいの人がフレディ・マーキュリーのように、ここまで強い信念を持って目の前の物事に取り組めるでしょうか。夢や理想を大きく描き、周りに熱く語れば語るほど、批判を受けることも多くなります。「どうせ無理だ」「できっこない」「無駄だ」…このような批判を受けたときにどれだけの人が戦い続けることができるでしょうか。
しかし見方を変えれば、批判ほど自分の信念が試されるものはありません。「自分が成し遂げたいものは何か?」「誰のために、何のために、なぜ、そこまでそれを成し遂げたいのか?」 逆境があるからこそ成し遂げる目的や決意が、強く明確になっていくものです。
描いたことが現実になるとすれば、何によって憶えられる人生を送りたいでしょうか?
少なくとも自分の中で後悔ない納得のいく人生を築くために、何を極めるでしょうか?
As far as I always am honest, have a pain and live for myself, I’d like to enjoy a life greatly.
(僕はいつも自分に正直でいたいし、生きてる限りは人生を大いに楽しみたいんだ。)
境遇や出自、ジェンダーなどの様々な葛藤に悩まされていたフレディ・マーキュリーによって語られた言葉です。彼は常に自分に正直で、音楽を通してありのままの自身を表現し続けていました。
誰しもこの言葉のように、自分に対して正直に生きたいと思っていることでしょう。ただ、実際はそうはいかないことも多いと思います。日本人は特に、異質や異端というものには白い眼を向け、出る杭は打たれる傾向にあります。どうしても周りと同調してしまって、本来の自分を出せないという人も多いのではないでしょうか。様々な苦悩や葛藤に相対したとき、このフレディ・マーキュリーの言葉の意味が理解できるはずです。
世間の評価や人との比較の中だけで生きるのではなく、確固たる一人の人間として自分らしさや信念を突き通す生き方を、きっと教えてくれてくれているのではないでしょうか。
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フレディ・マーキュリーは音楽を通して、自分らしさを追求し表現する生き方を全うしました。ただがむしゃらに楽しむだけではなく、結果に対しても一切の妥協はなく、常に自分にとっての最高を目指しました。その結果、彼が亡くなった後に生まれた私たちのような20代にまで影響を及ぼしているのだと思います。
自分の信念を貫き通し、その生き方を示し続けることで人の心や社会を突き動かすことができるのだと思います。一度きりの人生、一度しかない20代を、自分らしく駆け抜けてみませんか。
参考
QUEEN official site 〈http://www.queenonline.com/〉
Buzzfeednews〈https://www.buzzfeednews.com/article/pdominguez/bohemian-rhapsody-doesnt-do-freddie-mercurys-queer-life-and〉